温泉の歴史(近世)※江戸時代
2015年12月11日 公開
前回は中世の温泉について解説いたしました。
この時代は、武士や僧侶などが中心となって盛んに温泉が利用されてきたことがお分かり戴けたと思います。
今回は「温泉の歴史-3-」として、近世の温泉について簡単に取り上げてみましょう。
関ヶ原の戦いで豊臣方が徳川方に破れ、1603年に徳川家康が江戸に幕府を開きました。これよりおよそ300年にわたる徳川幕府の統制時代は「江戸時代」と称され、史学的には近世と呼んでいます。
徳川幕府の統制下では、全国に藩が置かれ、それぞれの藩は大名によって統治されていました。参勤交代が実施され、東海道や中山道、奥州街道など江戸への街道が整備されました。しかし、現在のように誰でも自由に旅行が出来る環境ではなく、各地に関所が置かれて「通行手形」がなければ、関所を越えることが出来ない世の中でした。
江戸時代には、温泉について数々の文献が残されています。各地の大名が湯治したと伝えられる温泉地も数多く存在しています。また「御汲湯」と称され、熱海や草津などの温泉を江戸城に運び、その温泉を沸かして将軍が入浴したことなども伝えられています。
熱海温泉での湯汲の図
(『大湯』-熱海温泉の歴史-講談社昭和37年より)
将軍や大名などの湯治が盛んだった一方で、多くの一般庶民も温泉を利用していた記録も残されています。農民や町民など庶民の場合は、湯治願いを出して許可を受けて湯治を実施したようです。一般的に湯治は3週間程滞在していたようです。
江戸時代末期の草津温泉全図
(『草津温泉誌第壱巻』草津町役場昭和51年より)
また、伊勢参りや金比羅参りなどの行き帰りに温泉地に宿泊するケースも多く見受けられたようです。例えば、東海道には53の宿場があったことはご存じのことと思います。箱根八里と言われる急峻な山岳地帯には芦の湖畔の箱根宿だけが正式な宿場でした。これが江戸日本橋を出て10番目の宿場にあたっています。それでも、当時は「箱根7湯」と呼ばれていて各温泉地は賑わいを見せていたようです。一夜湯治と称して、1泊だけ温泉地に宿泊するような形も多く、小田原など近隣にある正規の宿場よりも温泉地に泊まることを望んだ人が多かったことの現れだと思います。
安藤広重の箱根七湯図会-芦ノ湯-(嘉永5年)
(『箱根温泉史』ぎょうせい昭和61年より)
近世日本にどれだけの数の温泉地が存在したのかは定かではありませんが、江戸中期に発行された史料の一つである「温泉番附」には、100カ所近くの温泉地がその効能や江戸からの距離と共に掲載されています。これらの温泉地は、すでに湯治場としての機能を備えていたことが伺えます。
このようなことから、近世は大名や武士階級だけでなく、農民や町民など一般庶民も温泉を利用していたことがお分かり戴けたと思います。